開田に生きる

☆ 村人と山林・3 ☆


国有林の皇室御料林への編入は、皇室財産を確定する作業の中で、天皇の権威を裏付ける経済的基礎とするべく、山村住民の旧来の慣行や諸権利を無視し、おさえつけ、また懐柔して広大な御料林確定に向って動きました。
宮内省は官林に隣接する民有地を御料林として買い上げる「御買上」を行おうとしました。
この問題に対する木曽全郡の会議にもとづいて、開田村では「御買上お断り」の決定をしました。
しかし、引き続く明治31年から6年間にわたる御料林境界査定の際、官林に隣接した一部民有地を、五木が生立するという事を理由にして、強権的に御料地に編入したので、木曽地方においては御料地と民地の境界再調査請願が次々と出されました。

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樹1これらの請願は却下されました。
他に、民事訴訟なども行われました。
明治憲法の「天皇ハ神聖ニシテ侵スベカラズ」といった定めの時代、しかも木曽山林は単なる官有林ではなく御料林、すなわち天皇の財産であった事が、境界引き直しなどの郡民の要求を拒否する厚い壁となりました。
従って、最終的には訴訟を取り下げる以外解決の方法はありませんでした。
境界査定の過程で生じた地元住人と明治政府との係争は、30年の長期間を費やしました。
なお、開田村では昭和の初年まで、係争は複雑に尾をひきました。

地租改正を機として、近代的な所有権の法観念が入会地に対して機械的に押し付けられ、民法に基く登記が行われるようになりました。

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太平洋戦争が終わり昭和22年(1947)、木曽御料林は国有林へ移管されました。
御料林をめぐって、従来天皇の財産と言う事で文句一つ言えなかった山村住民の中から、「御料林を地域住民に開放せよ」という国有林開放運動が全国的に起こりました。
国有林解放運動の影響と、林政統一による政府自ら一定の国有林野処分整備を必要とした事が加わって、昭和26年(1951)、国有林野整備臨時措置法が公布され、一部の国有林野が、地元優先を原則として払下げられる事となりました。

樹2この法律によって、売払い・交換の対象となる国有林野は、孤立小団地、孤立施業地、民有地との境界が錯そうしている場所、または慣行的に地元住民が自家用薪炭の原木供給源としてきた林野であって、国が経営する事を必要としないところ、等です。
売払いの優先順位は、当該国有林の所在する市町村、当該国有林の所在する都道府県、其の他の者、の順です。
売払い価格は時価でした。
これらに絡んでも、多くの係争や民事訴訟などがありました。

開田村誌発行の昭和55年(1980)頃は、記名共有地は入会林野近代化法などによって、それぞれの占用地域を分割して、個人用地として登記する作業が進められていた様です。


この内容は、長野県木曽郡開田村役場編集『開田村誌』を元に、旧開田村の許可を得て編集しています。
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