風俗習慣と民俗

☆ 山にまつわる民俗・1☆


この村は山村で、山仕事が生活をささえる大事な仕事でありましたので、まずは山仕事にまつわる民俗からご紹介します。

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山の講

「山の講」は、縮まって「ヤマノコ」と呼ばれており、山の神様を祭る日であります。
山の神は祭神は大山祇命(大山津見)であり、狩人・木こり・杣などの山仕事をする人々が山仕事の安全を祈る祭りとして生まれ定着したものです。
この村では春2月7日、秋10月10日(旧暦)に行われています。
「山の講」という字は、山仕事の仲間の集まりを意味しています。
丁度、御嶽講の「講」が御嶽信者の集まりであると同様であります。
山の神は各部落毎に祭っており、また数軒で1つの山の神を祭っているものもあり、一軒で1つ又は2つ以上の山の神を祭ったものもあります。


山の神の信仰と「山の講」の民俗的起原
山の神信仰と「山の講」の民俗的起原については、「民俗民芸双書」の『宗教と民俗学』につぎのように記されています。

山の神の祠『日本の民間では、二、三月ころの春季と、十、十一月の秋季と年二回にわたり、山中に奉祀する山の神を祭り、また「山の講」とよばれる講宴をもよおす。多くは狩人とか製炭業者、あるいは用材の伐採・運搬などの山仕事に従事する人々の間にみられる祭祀である。−−「中略」−−まず、この山の神の祭り日には、いかなる事情があろうとも、なんぴとも山中へはいることは許されない。もしこの禁を犯して山へゆくと、必ず大変事が起こる。山崩れに遭って圧死するとか、倒れ木の下敷きとなって大怪我をする、など。だから、この日は、終日仕事を休むことにしている。−−「中略」−−
大自然のなかに実生する原生林に囲まれて暮らした古代人は、樹木の芽生えや繁殖について異常な神秘観を抱いていた。そして、そのような生命の根源、生殖の根底に、山の精霊としての神の絶対的機能を想定した。かくして成立した生殖農産の神としての「山の神」に対する信仰は、しだいにその領域をひろめ、多くの信徒を獲得していった。そして今日、単に山林のみでなく、日本全国に広く分布する「山の神」の小祠 によってみても明らかなように、民間信仰の一方の雄とみなされるほどに発展したのである。』

このように、山の神信仰は、古代山村住民の原始素朴な民間信仰として生まれ、発展継承されてきたものです。
開田村の各所に数多く点在する「山の神」の小さな祠は、「山の神」を招魂して祭ったもので、このような「山の神」の小祠が全国に広く分布し、民間信仰の一方の雄となるほどに発展したものであることが分かります。

山の神信仰と地名の民俗
大野晋という国語学者は、その著「日本語の起源」の中で、つぎのように記しています。

『宗教的意識についてみると、北方大陸系の神の観念は、南方の日の神[ヒノカミ](太陽神)でなくて天上神[アマツカミ]であり、神は天上から、山や木に垂直に降下してくるとされている。ここに山を直接に神として山に神社を作り、神社には必ず杜[モリ]を伴い、あるいは杜そのもの、大木そのものを神として祭る風習の源がある。』

開田村では、山の神を祭ってあるところや、部落(むら)の氏神を祭ってあるところを一般的に「もり」といいます。
この民俗的起源は、北方大陸系の天上神(あまつかみ)信仰にもとづくもので、大野晋氏は、このような民俗は弥生時代以後に北方大陸系の民俗が伝えられたものであろうと推察しています。
また、「モリ」という地名(山名)について調べてみると、地理調査所の5万分の1地形図によると、木曽地方には、大桑村に飯盛山(メシモリヤマ)、開田村には三森山、木祖村と東筑旭村南安奈川村の境には鉢盛山があり、王滝村と下呂町竹原には高森山があり、南木祖柿其と岐阜県恵那郡川上村境には夕森山がある。
このように「森」とか「盛」という呼ぶ山を全国的にみると、奥羽地方と四国地方に集中的に多くみられ、中部地方では、長野、岐阜、山梨、新潟の各県、近畿では和歌山、奈良、大阪の各府県、中国では山口、岡山のそれぞれ各県に分布しています。

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次へつづく


この内容は、長野県木曽郡開田村役場編集『開田村誌』を元に、旧開田村の許可を得て編集しています。
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