開田村に伝わる「山の講」の行事と民話 開田村で行われていた「山の講」の行事と「山の講」にまつわる民話は、つぎのようなものです。 春の山の講と秋の山の講では多少ちがいますので、まず春の山の講のやり方をみましょう。
山の神に供える供物を朝早く用意する。
まずエンマ(絵馬)を祠のそばの大木の枝にくくりつけて(つるして)、「のり台」をたて、台の上に「のり」(2つ重ねのもの)をあげて、「きづりから」で酒をかけて、今年の山仕事が無事に出来るよう祈願をする。
秋の「山の講」は、「のり」を搗いてお供えしておまいりをしますが、春の山の講と1つちがうのは秋にはエンマ(絵馬)をもって行かず、金色と赤色の錦の小切れをヒノキやサワラの割箸状の棒に割り目を入れて差し込んだものをもって行く。 これは、山の神が錦を着て帰るという意味だそうです。 山の神信仰と山の神の祠、山の講祭りなどは、この村の昔の人達が、長い歴史時代を山仕事で生きてきたことを示すものであります。 また、秋の「山の講」には、お寺へ一年の納めものをもって行き先祖様にお線香をあげて帰りました。 山村住民にとって、「山の講」は大事な年中行事の一つでありました。 尚、西野には石をくりぬいた山の神の祠があります。
ところで、このノリの民俗について、信濃史学会発行「信濃」第30巻第1号にある、田中磐氏の「信濃各地の粢資料」に、つぎのように記されています。 信濃各地の粢(しとぎ)資料 −おからことおはたき− 粳の米を水にひたして、見た目も清らかに美しく精製した食物。 しかもこれは火を使わずに作られ、ずっと昔から神饌仏供用に専ら用いられその純白な清浄そのものの色と人々により精進奉仕して作られた整斉な形は、祭られる神や祖霊の神聖で畏れかしこむべき姿をその場に髣髴させている。 水に冷やして搗き砕き柔らかくまた湿らせた尊い御供・祭式用の食品という意味でいみじくもシトギ(粢)と呼び馴らわされてきた。 シトギは神仏に供える洗米とも近縁関係にあり既に、和名抄等にも見える。そして、ハレの日の食品でもあり、人々の嗜好が変わって火食が専らとされるようになっても依然、尊び敬うべき祖霊や神には捧げられ来って今日なお、地方にさまざまの形と名称で伝えられている。 先ず名称についてみると、中部から東北地方にかけてオカラコ(カラコ)という呼称でシトギは呼ばれ更に、別の呼び名としてはシロモチ・シロコモチ・ノリとして知られる。(傍線編者) さて、古式な杵と臼である、かの兎の餅搗きの絵に描かれた堅杵と堅臼は粳米を水に浸して粉にするとか、粉にしたものに水を加えるとき等用いられ、杵・臼が今日見る形に改良変化するまで用いられてきた。 この二種の民具は、山村・離島等で名称と用途が当初とは全く異なって今なお見られる場合がある。(開田村には、この古い杵と臼が今日も残されている。・・・編者。)−−「中略」−− 次に木曽谷に移って山の講の祭り(山の講の日)の粢餅についてみると、これは二月七日または三月中旬に行われる祭事である。−−「中略」−− 山の講の祭りには紅(アワ)白(コメ)のノリを供える土地もある。古くは水車の臼でアワとコメを搗いて砕き、水を入れて握り固め、丸い餅を拵えた。これは人々が下ろして頂戴するが蜂蜜等を塗って食べる。(開田村西野)(「編者註」−−蜂蜜は上等の方で、一般には火で焼いてタマリをつけて食べた。) 開田村もずっと奥へ入ったところでは正月のお鏡餅のようにノリを作り上げ山の神に供進する習わしであった。産神様や土地の熊野神社へもお祭りのとき供えた。(開田村小野原) 末川の例のようにノリを分割して山の神に供える例は三岳村でも見られ−−「中略」−− 三岳村では春、二月七日、秋は旧十月十日山の講である(「三岳村の民俗」)−−「中略」−− 人々は古来の習俗と信仰に基づいてその日、そのときその場面が到来すれば捧げ供える。神仏祖霊は奉仕する人々の心を掬い取って受け入れてくださると先祖代々、人々は考えてきた。考えてみれば世にも不思議な食品である。「後略」
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