開田に生きる

☆ 村人と山林・2 ☆


江戸時代、尾張藩の明山のうち、村落の周辺にあって自然頻繁に利用され、地元住民の生活に不可欠な土地は、部落又は個人で独占的に用益されていました。
それらが後に、共有地、個人有地に転化しました。
共有地の利用形態は、大部分が純然たる共同利用ではなく、その占用区域を各農家別に区分画定していたもので、その性格上それらは一般的に、記名共有地と呼んでいました。
その他の共有地の例としては、共同放牧地があります。
これは純然たる入会地で、その部落に属する全農家は、馬の放牧、下草等の採取など、平等の権利を持っていました。

徳川尾張藩の林政は、「木一本首一つ」といい、盗伐者に対して「枝を伐る者は腕を、木を伐る者は首を」といった厳しい「掟」で取締まっていました。
しかし、一定の利用制限はしたものの、広大な明山を住民に解放して利用させた事は、後に明治政府が全面的に山林をとりあげたよりは、住民とってまだましな林政でした。

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明治の官明治6年(1873)、地租改正条例に基き行われた「官民土地区分取調べ」という官民有境界設定の中では、木曽谷全住民の既得権であった明山への入会権の剥奪をはじめ、多くの民有地侵害が生じ、木曽谷有史以来の全郡あげての対政府交渉(闘争)に発展しました。

明治政府が成立して以来、色々な制限や取締まりが強められました。
明治11年(1878)の「官林保護の布達」によると、「火入の規則」「払下げの規則」「立入の際の鑑札携行」等、全面的な規制となり、官有地への入会を否認する意図が明らかになっています。
林野からの下草笹などの刈取採草は、山村の農業や畜産にとって欠く事の出来ない命の綱というべきものでしたが、官林内への立入りが禁止されたり、許可を取って立入りできる官林内の下草笹などは有料化されてしまいました。

かつて、自由に入山していた林野から閉め出されたため、木曽谷住民の生活と産業は危機に瀕し、そのため盗伐の罪を犯す者が激増しました。
明治の民生きるための当然の手段として盗伐が行われ、相互にかばいあう風潮も生まれました。
また盗伐は、明治政府の山林政策に対する抵抗という性格も持っていたようです。
盗伐を自首した者については、自首に免じて木代金を追徴という形でした。
しかし、盗伐量が一個人の分としては多量で、おそらく何人かの分、又は部落の分を誰か一人が代表で背負ったものでしょう。
開田村では、当番を決めておいて順番に罰を負ったという事も伝えられています。
その後刑罰は、罰金から体刑に変わりました。
ちなみに、これらに関する木曽郡の明治8年から31年までの受刑者総数は、九百五十有余名、贖罰金一万数千円余口、という記録があり抵抗の凄まじさを伝えています。

明山に対する入会権の主張(明山開放運動)は、盗伐などの実力行動も伴いながらも、何度も請願運動などの形で展開されました。
明治初年における明山解放運動の嘆願書の中には、海辺の人達が魚や塩などの海産物を採って生活しているように、山の中に住む人達が木や草を利用して生きるのは当然で、海に利用制限がないように、山村民にも山林の利用用益を自由にして欲しい、というような表現もあります。

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次へつづく


この内容は、長野県木曽郡開田村役場編集『開田村誌』を元に、旧開田村の許可を得て編集しています。
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