開田高原って本当はこんなとこ・・・第15話

最近めっきり年を取った感のある開田者の昔話。

日本のアボリジニ・・・な話
テレビの番組などで、オーストラリア大陸の先住民アボリジニが、(おそらく蛾の)幼虫を食べるのを時々見ます。
焚き火で焼いて食べる事もあるようですが、生で食べる映像はかなり衝撃的な物です。
何万年もかけて根付いた食文化ですから、否定する気は毛頭ありませんが、ワタシが食べるとしたら火だけは通して欲しいなぁ・・・と思って見ています。

昔、開田村の農家で馬や牛を普通に飼っていた頃の話ですが、これらの動物を飼うには大量の牧草が必要でした。
それぞれの農家ではあちこちに採草地を持っていて、そこに草刈りに行くのが日課でした。
(余談ですが、朝起きてまず草刈りをして牛に餌を与え、それから朝食を食べ学校に登校して来ていた、とても働き者の同級生もいました。)

村のある年寄りの話しでは、草刈りをしているとスガリ(草むらに小さな巣を作る足長蜂)の巣が掛けてあるのに気付かずにそのまま刈ってしまい、よく手などを刺されて痛かったそうです。
蜂の子を食べる風習については度々話題にしていますが、大概そのようにして牧草と一緒に採集された蜂の巣は、家に持ち帰り、解体・調理のうえ食卓にのぼります。

ところがお腹が減っている時などには、その場でおやつ代りに食べる事もあったそうなのです。
さてさて、作業の合間の野っ原でどうやって食べたのか?

・・・そのまま生で食べたそうです。

考えてみればそれしかないか・・・。

生の蜂の子は、ほんのり甘くておいしかったそうです。
アボリジニの人も、幼虫を食べてそんな事を言っていた様な記憶が・・・。

ある時酒を飲みながら、そんな蜂の子の話を村の友達としていたら、「昔は蜂だけに限らず、カミキリ虫の幼虫も木から取り出して食べていたと聞いた事がある。」と言っていました。
(生で食べたかどうかは不明です。)

意外な所で、アボリジニと開田人の類似点が見出されて、とても不思議な気分です。

アウトドアの達人!

アボリジニの子供

・・・・Aboriginal・・・・
・・・・Soul・・・・
・・・Food・・・
・・?・・


虫釣りをするらしい

そういえば・・・
ニューカレドニアのカラスも
似たような虫を
食べていた


売り屋の人々
蜂の子の獲れる夏も終わり、秋になるとそばが採れます。

子供の頃、秋になるとリンゴなどの果物を持った売り屋(行商人)兄弟がトラック2台でやって来て、何泊かワタシの家に泊まっていました。
道も未舗装で民宿なども無い頃でしたから、いわゆる民泊をしていたのでしょうか?

どの様ないきさつでワタシの家に泊まる様になったのか知りませんが、ワタシの家ではそば粉と木箱にもみがらと一緒に入ったリンゴとを物々交換していました。

リンゴと共にやって来るにぎやかなおじさん達だったので、人見知りだった幼い頃のワタシも、その売り屋のおじさん達は好きでした。

おじさん達は、よくワタシら子供の口まねをして変な開田弁を使うので、それがおもしろ可笑しくて大喜びしていたのですが、今思えば自分が「開田弁」という他では無い方言を使っている事を自覚したのは、この頃なのかもしれません。

霜の降りた寒い朝には、トラックのボンネットを開け、もうもうと湯気を上げる焼かんのお湯を掛け、やっとの思いでエンジンを始動していました。

売り屋のおじさんの車に乗せてもらい、未舗装の道をガタガタと村の集落を回った事を覚えています。
子守り代りだったのかなぁ・・・?

売り屋のトラック

そう言えば幼い頃の記憶では、ワタシの住む集落には駄菓子屋の様な店がありました。
木曽福島町から来たお婆さんが、隣の家の小屋を借りて住み、店の様なものをやっていたのでした。

そのお婆さんは、品物を持って村の家々を売り歩いていました。
お金が無くても、そば粉や野菜などと物々交換が可能でした。
友達の話では、そのお婆さんが来た時には、必死に家の人にねだって物々交換してもらい、お菓子を食べることができて、子供の時すごく嬉しかったと言っていました。
その友達にとっては、売り屋のお婆さんは女神様のように見えたに違いありません。

物々交換の場合、そば粉が一番交換の率が良かったらしいです。
お婆さんはそば粉を木曽福島に持って行って売り、また駄菓子などを仕入れて来ていたそうです。

まるでチベットあたりの交易商人の話みたいだ・・・。

ワタシ自身は、売り屋のお婆さんの所に駄菓子を買いに行った様な憶えはありませんが、家に訪ねて行っては、そこで遊ばせてもらったり行商に付いていったりした記憶は微かにあります。

りんご



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