山姥の正体!! 20余年目の真実は、実に意外な方向に進んでいたのです。 |
飲み話 数年前、飲み屋で同郷の友人と飲んでいる時に、偶然その話が始まりました。 友人は小さい頃、家の近くの山の方にあった空き家に、フランス人が住んでいたと言い出しました。 狭い村です。 だいたいの事は、すぐ村中に知れ渡ります。 しかしそんな目立つ内容の話なのに、ワタシも、同席していた別の開田の友人も初耳でした。 だいたいワタシ自身、子供の頃開田村内で、2回しか外国人を見たことがありません。 小学校からの帰り道に、車で通り過ぎるのをちらっと見かけたのと、中学校の英語の先生が、知り合いのアメリカ人を授業に連れて来た時だけです。 ですから、随分と妙な話でした。 第一、なんでフランス人とはっきり言い切れるんだろう? だいたい日本人は、白人を見たらそれが何処の国の人であろうと、アメリカ人と決め付ける事になっていたりするし・・・。 さらによくよく話を聞いてみると、そのフランス人は女の人で、たまにその友人の家の農作業を手伝ったり、野山で蝶を集めたりしていたというのです。 (蝶といえば余談ですが、ワタシは小学校の帰りに採った、カブト虫の幼虫とさなぎ数匹が入った袋をぶらさげて歩いていたら、車で通りかかった観光客らしき人に、確か「500円位で全部で売ってくれ。」と言われて売った事があります。虫を買う人がいる事には驚きましたが、とっても儲かったと思いました。) そして、何処に行ったか知らないけれど、そのうちそのフランス人は居なくなったというのです。 ただ、昔の話なので、今から思うと何故フランス人だとわかったのか、友人もはっきり覚えていないらしいのです。 しかし・・・山の空き家に住んでいて、時々農作業を手伝ったりする・・・。 日本昔話によくある、人に化けたタヌキかキツネ、はたまた妖怪か山姥の様でもあります。 いや、友人の見たのは、きっと白髪の山姥だったにちがいない! 酔った席での話です。 その時は、ひとしきり笑って、そう結論が出て話しは終わりました。 |
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ひよんな事から知った真事実 去年、本当に偶然から、山姥の正体が発覚したのです。 インターネットの力を思い知った瞬間の1つでした。 昨年11月のある朝、いつものようにワタシは信濃毎日新聞のオンライン記事を読んでおりました。 ありがたいもので今時は、横浜にいながら長野県地方のニュースを(全文ではありませんが)読むことができます。 勿論、開田村がニュース記事になることは、あまり多くはありません。 でも、その日のそのニュースのタイトルには「パリへ渡る開田の民家」と、しっかりはっきり登場していました。 記事の内容から、開田に縁のあるフランス人の研究員がいる事はわかりました。 でもその時点では、単に「世の中変わった外人もいるもんだ。」という程度の興味でした。 ワタシが興味があったのは、そのパリに行くという開田村の民家の方です。 早速、詳細を調べにかかり、そこで初めて驚愕の事実を知ったのです。 開田者、懺悔・・・ コビー博士! 今までの酔っ払いの無礼な会話、お許し下さい! 本当に全然知らなかったのです・・・ |
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日本の山村民家パリへ行く 昨年より、当サイトの表紙ページに掲載していた『おしらせ』でご存知の方もいらっしゃるかと思いますが、その話は「日仏文化交流をめざし農家をパリに移築するプロジェクト」として、作家・小松左京氏のサイトに詳細が掲載されています。 → 日本の山村民家パリへ行く (リンク先が無くなってしまうかもしれませんが・・・。) コビー博士と小松左京氏は旧知の仲だそうです。 「そこには黒沢明監督の映画そのままの世界があった」という、コビー博士の開田村民の生活の第一印象の話など、とても面白い対談になっています。 プロジェクト自体非常に興味深い話でしたので、こちらでもあらためて紹介しておこうと思います。 フランス国立学術研究所研究員のジャーヌ・コビー博士(日本民族学)は、25年前の留学生時代に開田村を訪れていたそうです。 県無形民俗文化財に指定された麻織の技法を持つ、開田村西野の畑中たみさん(故人)と、交流を深めていたという事です。 たみさん亡き後、畑中さん宅では新居を建て、空いた旧家を惜しむコビー博士が、家族の快諾を得て移築を進めてきた、というのがこのプロジェクトの概要でした。 本当に、昔、開田村にフランス人は滞在していたのです。 友人が幼い日々に出会ったというフランス人女性は、このコビー博士でした。 彼は、記事に掲載されていた博士の写真を見て断言していました。 さて、そのプロジェクトのその後の展開ですが、追々お知らせ頂けるそうですので、情報を入手次第掲載したいと思っています。 |
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