木曽馬保存会会長:伊藤正起さん談
開田の先祖の人達の、馬に対する愛情といつくしみは深く、
「馬ひとすじ」に生きたといっても過言ではありませんでした。
馬の住居
今では大部分が取り壊されて、その面影が少なくなっていますが、
開田村をはじめ、木曽馬を多く飼育していた木曽の山村では、
厩(うまや)は人間の住む家と同じ棟の中にありました。
いわば人間の住む家の一部が厩になっていたのです。
そしてそれは、南側の日当たりの良い、一番温かいところに位置していたのです。
上の図を参照して下さい。
馬の看病
馬は家族の一員でした。
馬が病気にかかったときなどは、家族が病気にかかったのと全く同じように、
あらゆる手だてを尽くして看病しました。
厩に厚く藁を敷き、その上に毛布を広げて、人間が馬と一緒に寝て看病したり、
至れり尽くせりの手当てをしました。
普段でも、馬を愛して馬と一緒に寝ることは、馬好きの人にはあたりまえの事でした。
(事実、この資料の編者の父や兄は、酔っ払って厩に転げこんで、よく、馬と一緒に寝ていたそうです)
昔この村では、近所の馬が病気にかかると、病気見舞いといって草笹を送ったものです。
子馬の祝い
なにしろ大切な馬です。
子馬が生まれると、人間の赤ん坊の誕生と同じように、赤飯を炊いて祝いました。
このお祝いは、生まれた当日に行う場合と、生誕7日目のお七夜に行う場合と、
いろいろでしたが、とにかく人間並みに祝ったものでした。
その上、6月下旬の田植上りには、当歳馬のある家では『トーネ祝い』といって、
隣組単位の小むらの人達を招待して、お祝いの宴を催したものでした。
木曽馬が、おとなしくて「子供でも引いて歩ける」と言われる温順な性格なのは、
こうした長い年月にわたって、木曽の山村農民に、いつくしみ育てられた結果です。
人間はその昔、獣肉をよく食べました。
しかし、馬の遺骨には、不思議と破砕がないといわれます。
これは、人間が馬を殺して食べることをしなかった証拠とみられています。
馬頭観音
こんなにも大切にしていた馬が、病気や怪我などで死んでしまうと、
飼主は家族の一員を失ったように悲しみました。
遺体を定められた馬墓地に運び、丁寧に埋葬します。
その後、馬の霊を供養するために、馬頭観音の石碑をたてます。
野辺の馬頭観音の石碑は、いわば馬の墓石なのです。
開田村に馬頭観音の碑がおどろく程たくさんあるのは、
この村の人達が、馬を人間並みにいつくしんだ事、
この村が有名な木曽馬の主産地であった事を物語っています。
馬頭観音碑の中には、石ではなく本物の馬の頭骨を厩にまつってあったものもあります。
この、馬の頭骨をまつるという風習は、東北地方にもあります。
日本人にとって馬は、信仰のうえからも大事な存在だったようです。
馬や馬頭は農神的性格を持っていたもので、祖先神・農神の性格を持つオシラ神にも、
馬頭が用いられています。
開田村で馬の頭骨をまつったのも、これらの民俗伝承をうけついで、
魔除けの意味も含めて、良馬繁盛、厩内安全、豊作祈願などの役割もあったようです。
地境い(馬追い)の馬頭観音
西野駒背の馬頭観音
絵馬を見ると、必ずといっていいほど、猿が馬の綱を引いています。
馬が病気で元気がない時、猿を馬屋に入れてやると、馬は喜んで元気になり、
末川丸山の馬頭観音
馬と猿の話
あれは、馬と猿は非常に仲が良いことを示すものだそうです。
軽い病気なら治ってしまった、とも伝えられています。
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