(5) 馬と村の人たち


[Matori zu]


「昔は、百姓は馬のおかげでいきていたようなもので、
人間が馬に生かされていたようなもので、
嫁が亭主より馬を大事にしたというのも、まるっきり作り話ではないんです。」

木曽馬保存会会長:伊藤正起さん談


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開田の先祖の人達の、馬に対する愛情といつくしみは深く、
「馬ひとすじ」に生きたといっても過言ではありませんでした。


馬の住居

今では大部分が取り壊されて、その面影が少なくなっていますが、
開田村をはじめ、木曽馬を多く飼育していた木曽の山村では、
厩(うまや)は人間の住む家と同じ棟の中にありました。
いわば人間の住む家の一部が厩になっていたのです。
そしてそれは、南側の日当たりの良い、一番温かいところに位置していたのです。

上の図を参照して下さい。


馬の看病

馬は家族の一員でした。
馬が病気にかかったときなどは、家族が病気にかかったのと全く同じように、
あらゆる手だてを尽くして看病しました。
厩に厚く藁を敷き、その上に毛布を広げて、人間が馬と一緒に寝て看病したり、
至れり尽くせりの手当てをしました。

普段でも、馬を愛して馬と一緒に寝ることは、馬好きの人にはあたりまえの事でした。
(事実、この資料の編者の父や兄は、酔っ払って厩に転げこんで、よく、馬と一緒に寝ていたそうです)

昔この村では、近所の馬が病気にかかると、病気見舞いといって草笹を送ったものです。


子馬の祝い

なにしろ大切な馬です。
子馬が生まれると、人間の赤ん坊の誕生と同じように、赤飯を炊いて祝いました。
このお祝いは、生まれた当日に行う場合と、生誕7日目のお七夜に行う場合と、
いろいろでしたが、とにかく人間並みに祝ったものでした。

その上、6月下旬の田植上りには、当歳馬のある家では『トーネ祝い』といって、
隣組単位の小むらの人達を招待して、お祝いの宴を催したものでした。



木曽馬が、おとなしくて「子供でも引いて歩ける」と言われる温順な性格なのは、
こうした長い年月にわたって、木曽の山村農民に、いつくしみ育てられた結果です。


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人間はその昔、獣肉をよく食べました。
しかし、馬の遺骨には、不思議と破砕がないといわれます。
これは、人間が馬を殺して食べることをしなかった証拠とみられています。


馬頭観音

こんなにも大切にしていた馬が、病気や怪我などで死んでしまうと、
飼主は家族の一員を失ったように悲しみました。

遺体を定められた馬墓地に運び、丁寧に埋葬します。
その後、馬の霊を供養するために、馬頭観音の石碑をたてます。

野辺の馬頭観音の石碑は、いわば馬の墓石なのです。

開田村に馬頭観音の碑がおどろく程たくさんあるのは、
この村の人達が、馬を人間並みにいつくしんだ事、
この村が有名な木曽馬の主産地であった事を物語っています。


馬頭観音碑の中には、石ではなく本物の馬の頭骨を厩にまつってあったものもあります。

この、馬の頭骨をまつるという風習は、東北地方にもあります。
日本人にとって馬は、信仰のうえからも大事な存在だったようです。

馬や馬頭は農神的性格を持っていたもので、祖先神・農神の性格を持つオシラ神にも、
馬頭が用いられています。

開田村で馬の頭骨をまつったのも、これらの民俗伝承をうけついで、
魔除けの意味も含めて、良馬繁盛、厩内安全、豊作祈願などの役割もあったようです。


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開田村には馬頭観音が数えきれないほどありますが、特に有名なものを上げてみます。


末川丸山の馬頭観音
大桑村の伊奈川観音、日義村渡沢の渡沢観音と共に、木曽の馬頭三観音の1つとして有名です。

地境い(馬追い)の馬頭観音
「地境い」は「馬追い」の昔の地名で、西野と末川の境の意味です。昭和25年(1950年)6月設立。

西野駒背の馬頭観音
西野駒背の沢奥へ入る道の、向かって右側の南面する丘に建ててあります。



馬と猿の話

絵馬を見ると、必ずといっていいほど、猿が馬の綱を引いています。
あれは、馬と猿は非常に仲が良いことを示すものだそうです。

馬が病気で元気がない時、猿を馬屋に入れてやると、馬は喜んで元気になり、
軽い病気なら治ってしまった、とも伝えられています。




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