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昔から農耕馬として育成された木曽馬は、女の人にも使役できるように小さい馬でした。
しかし、物資運搬用の馬や軍用駄馬は、大型の馬の方が適しています。
明治に入り、日本が日清、日露などの戦争をくりかえし、国の軍国主義化が進むと、
政府と軍は、外来種馬を木曽に奨励し、木曽馬の大型化をはかります。
しかし、本来農耕馬として名高い木曽馬が大型化すれば、需要が減るのは当然です。
値段も下がりはじめました。
以来、木曽の農民は、外来馬による産馬改良を頑強に拒むようになります。
外国馬による改良によって受けた苦い経験から、木曽の農民は正しい教訓を得ました。
日本在来馬のほとんどが絶滅してしまった現在、数こそ少ないですが、
木曽馬が1000年の命脈を保ち得たのは、このおかげでした。
満州事変から引き続いて日華事変と、戦時体制が急速に進むに伴い、
昭和12年には、木曽の種牡馬の全部を、アングロノルマン系、ペルシュロン系の外国系に変え、大型の木曽馬を作り、木曽を軍用駄馬の産地にする計画がもくろまれます。
さらに昭和14年には、種馬統制法が制定され、木曽馬のような小型馬は繁殖を禁止されてしまいます。
昭和18年。
宝玉号を最後に、木曽に残された木曽馬系種牡馬はすべて去勢されてしまいました。
戦後に至り、木曽馬愛好者の中から、木曽馬復活の声があがりましたが、
なにしろ純血の木曽牡馬は一頭もいないという、さんさんたる状態でした。
しかし、関係者はあきらめずに、八方手をつくして、純血木曽牡馬をさがし求めました。
ついに、更埴市八幡の神社に、去勢されない純血木曽牡馬が一頭、神馬として奉納されている、という情報がもたらされます。
さすがの軍部も神馬にまで去勢の手をのばすことをためらったものでしょう。
昭和25年、関係者の懇願のもと、神馬にちなんで「神明号」と命名されたこの馬が、
木曽へもどって来ることになりました。
この神明号と、木曽福島町新開で飼育されていた純血雌馬の鹿山号との間に、
名馬第三春山号が生まれたのは、昭和26年4月8日のことです。
第三春山号は、昭和51年、名古屋大学農学部に学術標本として寄贈されるまで、
開田村で種牡馬として愛育されました。
現在20余頭の子孫が純系木曽馬として、開田村を中心に、愛馬家によって保護育成されています。