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往古馬は武将の戦馬であり、街道の大事な輸送用役馬でした。
朝廷または領主の管掌するものだったわけです。
でも、農耕馬としても山村農民の重宝な家畜だったため、次第に農民に飼育されるようになりました。
その時期は、おそらく山村地域での畑作農業の発展と、深く結びついているようです。
山村農民が次第に馬を飼うようになったものの、馬は大事な戦馬であり、役馬でもあったため、
その権利は依然として幕府や領主のものでした。
ちょうど、土地はすべて領主のもので、農民は年貢を払って領主の土地を借りて耕作する
・・・というのと同じでした。
馬はすべて領主のもので、それを農民が借りて飼育して、農耕や運搬などに使役します。
毛附馬の物成は、いわば『御用馬使役税』ともいえるものでした。
さて、17世紀後半。
代官の山村良豊が南部駒を導入して、木曽馬の体位改善をはかり、
半夏の馬の市(毎年7月2日より7月7日まで開かれた)が盛んになりました。
*半夏(はんげ):半夏という毒草が生える時期で、大体梅雨開けの頃
当時開田村では、どれくらいの馬を飼育していたのでしょうか?
当時のこの村の農家戸数 = 431戸(木曽福島史:享保(元1716年)の初頃の切畑の記録)
古老の話によると、昔は一農家が母馬を最低2頭は飼育していたようなので、
母馬はだいたい860頭という計算になります。
これに、当歳馬、2歳馬などを加えれば・・・・
山村代官は、良馬を15頭から20頭ほど召し上げて、乗馬に供したようです。
しかし、この優良馬の留馬制が、木曽馬の体位向上に大きな役割を果たし、
後の『馬小作制度』の起源となった、預り馬、預け馬が盛んに行われるようになります。
『馬小作制度』
この制度の発生で、当時の木曽の経済社会は多様化します。
・馬を有利な投資対象として、競って馬を預ける商人達。
主要産馬地のいくつかの宿村は、『毛場』と呼ばれました。
郡誌には、『馬籍』と呼ばれる『馬の戸籍』が、元禄(元1688年)年間に毛場取締の必要に応じて作られた、と記録されています。
文化文政(1804年〜)以降、馬の保護と毛場の取締は一層厳しくなります。
名馬木曽馬の名を天下に広めたのです。
天保年間(元1830年)。
大正時代、当時の農商務省による全国各地の主要馬産地調査の際、木曽谷のこの得意な馬の貸借制度は、こう名付けられた。
以来、馬の所有者を『馬地主』、借りている農民を『馬小作』と呼ぶようになった。
当時の山村農民が、馬なくしては生きて行けない事や、
村の農民には自分で馬を所有するだけの資力がなかった事などが、
この制度が盛んになった理由だったと思われます。
・薬種業や医者など、特殊な家業で得た資金を馬に投資して、大馬地主になった者。
・馬持ちと馬持ち、飼育馬主と馬持ちの間をとりもつ博労(馬喰)という小馬持ち。
・山林を売って得たお金を、馬に投資した中小馬持ち。
しかし、開田村のような山村農民にとっては、生きるために大事な制度ではあったものの、
それによって暮らしを良くし農業生産を高める、というような事には、
あまり役立たなかったようです・・・・。
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